金曜日, 1月 29, 2016

天皇と戦後処理: 天皇皇后両陛下のフィリピンご訪問に接して

最初に、私は右でも左でもない、そのことを断っておきたいと思います。

私は戦後教育で、日本の歴史の重要な部分「戦後」を学校教育で空白とされた者のひとりです。

歳を重ねて50代の半ばとなり、この国の成り立ちや、日本人の指向と思考、文化人類学的な見地での日本と言う国を知りたいと欲して自から学んでいく内に、「いま」と直結しているこの歴史の空白の部分「戦後」を自分の中で消化しなければ「いま」を語れない、前に進めない、そんな気がしています。

我が家にやって来る世界中からの外国人と対峙するなかで、きちんと理解していないゆえに説明できないもどかしさを味わって、日本人としてのアイデンティティを嫌がおうにも感じさせられました。

特に、韓国を経由してくる外国人は、そうとう韓国人に吹き込まれ、韓国流の日本批判の嵐が目の前で吹き荒れます。相手方もきちんと理解しているはずもないのに反論できない悔しさ。国際人としては失格です。

この「空白」の部分は、「いま」を生きるものとして、どうしても外せない。しかし難しい。

なぜ難しいのか、歴史の証言者がまだ生きているのに、なぜ歴史が定まらないのでしょう。

(天皇皇后両陛下、フィリピン無名戦士の墓にて 出典:AFP)


過去の、大昔のことは、学問となって定説が作り上げられ、その多くは勝った方の理論で塗り固められます。今になって、その歴史が塗り替えられることが最近見受けられますが、それは一部で、ほとんどの部分はその場に居ない故に確認のしようがなく、定説に任せるままとなっています。

しかし、戦後70年の歳月が経ち、歴史の証言者がまだ生存するにもかかわらず「定説」が出来上がらない。歴史で語られるのは「勝者の歴史」であり、太平洋戦争で負けた日本は「勝者」によって歴史が作られるはずです。

海外での定説は出来上がっているように思いますが、国内でのコンセンサスは未だ錯綜しています。ならば、その戦後処理の歴史をいまいちど辿ってみましょう。


日本の戦後処理とフィリピン


日本の戦後処理について確認してみます。学校では学年末「自習」、あるいは「割愛」という訳の分からない理由で教えてもらえなかった部分です。(日教組に文句を言いたいところですが、今回は「割愛」します)

敗戦後、米国がGHQにより日本を統治した、これは誰もが知っています。敗戦国としての賠償金はどうだったか。その後の補償はどのように行われたのか、フィリピンはいかに賠償金を減額させられたのか、その歴史を辿ってみます。このことは日本人の共通認識のベースとして誰もが知っているべき事柄で、そのうえで様々な論議がなされるべきだと思いますが、そこが抜け落ちています。

短く歴史を記述すると下記のようになります。戦後賠償と朝鮮戦争とは切り離すことが出来ません。同時進行で進んでいたことが、下記年表でよく分かります。

朝鮮半島情勢
1949年7月 マッカーサーが「日本は共産主義の進出を防ぐ防壁」と演説
1950年6月 朝鮮戦争勃発 米国軍出動
      7月 戦闘激化 あわや釜山陥落となるとこまで北朝鮮が南下
      9月 ついに国連軍参戦(仁川上陸作戦) さらに激化
    10月 中国義勇軍が北朝鮮を支援して参戦 さらに激化
1951年3月 38度線で膠着
      4月 マッカーサー解任
1953年7月 板門店で休戦協定調印

賠償関係
1950年11月 米国による対日講和七原則:全ての交戦国に賠償請求権放棄を求める
1951年9月 サンフランシスコ平和条約 調印(49か国)
        調印の数時間後、日米安全保障条約 調印

2国間協定による賠償金
1955年11月 ビルマと2億ドルの賠償協定締結
1956年5月 フィリピンと5億5千万ドルの賠償協定締結
1958年1月 インドネシアと2.23億ドルの賠償協定締結
1955年5月 ベトナムと0.39億ドルの賠償協定締結
 (※その他のアジア諸国への賠償は別の機会に譲ります)


私なりの解説です。

巨額の賠償金を抱える日本は、米国政府による占領経費で支えられていました。米国財政にそれが重くのしかかりました。日本が巨額の賠償を支払うことで経済復興が遅れることは、アメリカの負担を増大させる結果となります。それを米国は避けたかった。それで関係国に賠償金の棒引き交渉をアジアの賠償対象国へ始めました。

時は冷戦が始まった頃、朝鮮戦争が勃発します。日本の世話もしなければならない、朝鮮半島では火の手が上がっている。一時、北朝鮮は勢力を思うままにして朝鮮半島のほとんどを席巻するに至りました。日本を「共産主義の防御壁」としたい米国は、北朝鮮を何とか食い止めるために国連を動かし、仁川作戦が決行されました。

日本の統治はご存知、マッカーサーです。そして、朝鮮戦争の指揮も、同じマッカーサーが行いました。日本と朝鮮半島を両睨みして、統治者が考えることを推察するのは難しくありません。自分が掌握し自由にできるのは日本、やっつけたいのは北朝鮮とその後ろに居る共産主義国。こうなれば「日本を使う」のは常套手段です。敗戦で疲弊した日本に経済力をつけさせ、米国の利とする。それと米国経済を圧迫する統治費用、これを減らさなければ巨額の費用がかかる戦争を、朝鮮半島で行うことできません。

と同時に米国の安全保証枠の中に日本を組み込み、極東の安全保障体制を確立したい米国の思惑。共産主義の防御壁とするために、サンフランシスコ平和条約のすぐ後に日米安全保障条約を締結したのはそのためです。賠償請求権放棄と日米安保、この二つがセットになっている点が重要です。


出典はWikiと、「戦後補償から考える日本とアジア」 です。この本は2002年初版の本ですが、簡潔に纏められていて読みやすいです。もしも上記記述に誤りがあれば、コメント欄にご指摘いただければ幸いです。

 参考:
  日本の戦後賠償と戦後補償(Wiki)
  戦後補償から考える日本とアジア 内海愛子著 (山川出版社)


フィリピンへの賠償

フィリピンは太平洋戦争中、激戦のど真ん中にあり、キリノ大統領政権は損失額を80億ドルと推定しました。米国が賠償金減額を迫るサンフランシスコ平和条約の草案に反対し、あくまで金銭による賠償を求めました。フィリピン代表は平和条約に署名はしましたが、フィリピン国会が条約の批准を否定します。1956年にようやく批准に至り、日本との2国間協定で5.5億ドルの賠償協定が締結されました。

1947年7月 フィリピン共和国独立
1956年5月 フィリピンへの5億5千万ドルの賠償協定締結

そのフィリピンを両陛下がいま、日本人を代表して、贖罪の旅をされています。ご自身の代で日本の戦後をきちんと「始末する」ことに命の残り火を燃やしていらっしゃる、そう思います。両陛下にしかできないお役目を、ご高齢のお身体でなさっていらっしゃるお姿に、自然と頭が下がり手を合わせることしか出来ません。


天皇陛下のお言葉

天皇陛下が晩さん会にあたりお言葉を述べられましたが、その全文が日本に届きました。

読んでみて、少なからず感動しました。載せてみます。


(出典:朝日新聞社)


 貴国と我が国との国交正常化60周年に当たり、大統領閣下の御招待によりここフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります。今夕は私どものために晩餐会を催され、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉をいただき、心より感謝いたします。

 私どもが初めて貴国を訪問いたしましたのは、1958年12月、ガルシア大統領御夫妻が国賓として我が国を御訪問になったことに対する、昭和天皇の名代としての答訪であり、今から54年前のことであります。1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えて下さったマカパガル大統領御夫妻を始め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております。この時、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、将軍が1898年、フィリピンの独立を宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことも、私どもの忘れ得ぬ思い出であります。

 貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし17世紀に入り、時の日本の政治を行っていた徳川幕府が鎖国令を出し、日本人の外国への渡航と、外国人の日本への入国を禁じたことから、両国の人々の交流はなくなりました。その後再び交流が行われるようになったのは、19世紀半ば、我が国が鎖国政策を改め、諸外国との間に国交を開くことになってからのことです。

 当時貴国はスペインの支配下に置かれていましたが、その支配から脱するため、人々は身にかかる危険をも顧みず、独立を目指して活動していました。ホセ・リサールがその一人であり、武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人でありました。若き日に彼は日本に1カ月半滞在し、日本への理解を培い、来たる将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残しています。リサールは、フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました。

 昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。

 貴国は今、閣下の英邁(えいまい)な御指導のもと、アジアの重要な核を成す一国として、堅実な発展を続けています。過ぐる年の初夏、閣下を国賓として我が国にお迎えできたことは、今も皇后と私の、うれしく楽しい思い出になっています。

 この度の私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資することを深く願い、ここに大統領閣下並びに御姉上の御健勝と、フィリピン国民の幸せを祈り、杯を挙げたいと思います。
(朝日新聞Digitalより)

私が思うポイントは3つです。


  • 父親である昭和天皇が出来なかった「お詫び」を2度、なさっている。
  • 100万人以上が犠牲になったフィリピンの犠牲を「日本人は忘れてはならない」
  • 歴史的に関係の深い両国が良好かつ健全な関係にあることは喜びである




歴史の証言者が口を閉ざすのにも一理あります。天皇陛下と同じ世代の私の父は、2月で85歳になりますが、戦争の辛い体験は口にしたくないと言います。分かります。2011年の東日本大震災で被災された方が語りたくないと言われた、その気持ちに通じるものがあるのだと理解しています。誰もが辛い経験を封印したい。それは人間として本能の防御回路であり、語るには相当の覚悟が必要、その当時の自分に戻って辛い時間を追体験しなければならないという苦痛が待ってます。しかし近年、寿命の限りを自覚された高齢の方々が口を開き始めています。

キナ臭さ満点の安倍政権下にあって、戦争は絶対ダメ、加担もダメ、加担の道筋になる政策もダメ、と声を上げています。自身の体験として目の前で繰り広げられた血なまぐさい、人間の本性むき出しの行い、戦争は嫌いだ、やってはだめだ、孫に、次を担う人たちに同じ経験をさせてはだめだと、心のアラームが鳴り響いているのを感じます。

天皇陛下におかれても、その思いは同じだと私は思います。自ら歴史の証言者として口を閉ざさず、命の残り時間で、出来ることをやろう、やっておこう、父親が起こした(とされている)戦争を二度と起こさない、そういう決意を、近年のご訪問の報道に接して感じます。

改めて記します。私は道でも左でもなく、ひとりの人間として天皇陛下という人間性を尊敬するのです。そして、その陛下に寄り添い行動を共にする皇后陛下に共感するのです。




戦争となると憲法9条、自衛隊派遣法について語らないわけにはいけませんが、ここはひとまず筆を置いて、別の機会とさせていただきます。



ではでは@三河屋

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